山崎城
別名 宍澤陣屋 宍佐和城 宍粟城 |
付近住所 宍粟市山崎町鹿沢82-2 | 現在 山崎小学校 |
碑・案内板アリ | 日本城郭大系 |
池田氏 輝澄 赤穂藩へ 岸和田藩より 松井松平氏 康映 浜田藩へ 天領 児島藩より 池田氏 恒元→ 政周→ 恒行 改易 郡山藩より 本多氏 忠英→ 忠方→ 忠辰→ 忠尭→ 忠可→ 忠居→ 忠敬→ 忠鄰→ 忠明 |
この辺一帯が山崎城であり別名、宍粟城と言っていました。今から三百七十余年前(元和元年6月)徳川家康の孫にあたる松平石見守輝澄が宍粟郡三万八千石をもらって山崎の地に城を築きました。寛永8年、赤穂城主であった弟の政綱の死去により佐用郡と赤穂郡の内から三万石を加えられて六万八千石となりました。寛永15年、御家騒動により同17年、領地没収となり代わって岸和田城より松平周防守康映(やすひで)が城主となり宍粟郡、佐用郡のうち五万石を賜わりました。この城は宍粟、佐用を相和した城であることから城の名を「宍澤城」と名付けました。周防守は城地を整え城下の繁栄をはかりましたが、在城12年余りで慶安2年、島根県浜田に移りました。その後には岡山県から池田光政の弟、松平備後守が城主となり宍粟郡の三万石を賜わりました。寛文11年、恒元が死去し、その子 豊前守政周が後を継ぎましたが、延宝5年、政周がなくなり、養子の数馬が後を継ぎました。延宝6年、幼君 数馬も江戸で急逝、家を継ぐ子がなくお家は断絶、領地は一旦幕府の領地となり、延宝7年、本多肥後守忠英が一万石の城主となりました。前藩主、松平数馬の城地に館を造り、それ以来ここを「宍沢城陣屋」と呼びました。その後、藩主9代継続し明治維新となり明治5年、学制頌布により、この地の山崎藩邸がそのまま学校になり現在の山崎小学校に至りました。この左右の土塀と石垣も当時のものが遺っております。 松平石見守輝澄 六万八千石 元和元年(1615)〜寛永17年(1640) 松平周防守康映 五万石 寛永17年(1640)〜慶安2年(1649) 松平備後守恒元 三万石 慶安2年(1649)〜寛文11年(1671) 松平豊前守政周 三万石 寛文11年(1671)〜延宝6年(1678) 数馬 本多肥後守忠英 一万石 延宝6年(1678)〜明治4年(1871) 以後藩主9代 |